| この時期、東方地区は雨が多い。 夕方といえど、厚い雲に覆われた空は日差しを通すことはなく、いつも闇の一つ手前で留 まっている。 さらに雨が降らずともその湿度は驚くべきもので、さすがにこんな中余程の事がなければ かび臭い書庫に閉じこもろうなんて物好きはそうそうおらず、今日もエドワードは独り静かに 古書の山に埋もれていた。 それはひどく彼にとっては好都合な事である。 もともと、集中力がいいので周りに人がいようがどんなに騒いでいようが気にはならない のだが、彼の経歴上、余計なちょっかいを掛けて来る輩も少なくは無い。 特に、大佐の…軍の中でも異例の出世を遂げている「焔の錬金術師」ロイ・マスタングの 庇護下にあるならば尚更のこと。 最年少の国家錬金術師「鋼の錬金術師」は軍の中においては常に自身を不当に羨む敵と、 加えて「焔の錬金術師」の敵とも対峙しなければならなかったのだった。 もちろん、大佐の庇護下にあるという事はエルリック兄弟にとってはそれ以上の見返りが ある事なので、それに対してどうこうと大佐に文句を言う気はエドワードにはさらさらな い。 さて、一応、東方司令部の体面上、記しておくがここの書庫は中央(セントラル)の図書 館程ではないがそこそこ立派な構えをしており、ちゃんと閲覧用の椅子や机も用意されて いる。 しかし、幼少期の頃からの癖が抜けないのか、ただの面倒臭がりなのかは分かり兼ねるが エドワードは床に本を広げて読みふける癖がある。−−−それも処構わずに…だ。 そして今日も例にもれず、本棚を背に座り込み様々な古書や資料を広げていた。 照明は字が読みやすいようにと工夫されて設置されているにも関わらず、影が落ちている 中で細かい字を忙しなく目が追っている。 既に当の本人もどれくらいそこに居るのか…時間なぞ忘却の彼方に押しやってしまったの だろう。 そう、近寄る気配にも…、開かれるドアの音にも気づかずぬ程に…。 ただ、字を照らす光が弱まったことに気づいた彼はやっと視線を本から上げた。 「…ん? −−−ッッ!?」 だが、それは既に遅く、色のない手がエドワードの頬を捉えている。 飛び退ろうにも後方は大きな本棚、左右には既に逃げる隙がない程に接近されていたので あった。 そして最悪なことに今は錬金術を使えぬ身のエドワードである。 否、もし機械鎧の腕があったとしても彼にとってそれは出来ぬ相談であったに違いない。 それは要らぬ騒ぎを起す事を避けたかったのもあるが、何よりここにある貴重な古書を壊 さぬ為である。 冷たい感触が頬を伝って全身を支配した。 色の違う瞳孔の無いガラス球のような瞳が、黄金の瞳を見下ろす。 一つはエドワードと同じ色、そしてもう一つは…血の様な−−−赤。 彼が唯一それに抗えたのは、反らさぬ強い眼差しと書庫中に響く高い声だけであった。 「…オマエッッ、リオールのッ!!」 しかし、もう一つの手が床につかれたままの彼の腕にそっと重ねらた時、彼の意識は急速 に深い闇の中へと堕ちていったのであった。 ぐらりと上半身が傾ぎ、重力の法則に従って床に崩れ落ちようとすると、それを固い腕が しっかりと捉えた。 「…………………グルゥ…。」 固い器から洩れ出でる声は言葉ではなくまるで獣の唸り声であったが、それはリオールの 時のような激しさをもってはいない。 すると、それは意外な行動に出た。 それはエドワードの手をとると、自分の頬の辺りにそっと触れさせる。 そう、それはまるで何かを愛しむかのように…。 そうしている内にゴーレムは徐々に人間の姿をとり始めた。 それは、先ほどの容姿からでは想像も出来ない程のとても美しく儚い女性。 その身は淡いエメラルドの髪に合わせたかのようなこの辺りでは見る事のない民族衣装。 瞳も綺麗なマリンブルーへと変わっていく。 そしてその姿がはっきりと形を整えると、暫く腕の中の少年をじっと眺めていた。 その表情はとても切なくそして哀しみにと謝罪に満ちた色である。 微笑めばとても素敵であろうに何がそこまで彼女の顔を曇らせてしまうのだろうか。 そうしていると、彼女は痙攣するように震えた愛らしい口元から初めて言葉らしい音を響 かせた。 「アナタ、シカ、イナイッッ…。」 その音はその容姿同様、とても美しい音色なのにまるで血を吐くような告白であった。 苦しそうに震える睫毛の間から零れる涙が頬を伝い、エドワードの左手を濡らしていく。 「………。」 しかし、それにも彼は覚醒る様子はなくピクリとも動きはしなかった。 やがて女の細い華奢な手が失われた機械鎧の剥き出しになった接合部分に近づいていく。 その僅かに震える指先が、とても印象的であった。 そう、それはまるで大罪に触れる人の罪悪感と好奇心に似たそれ。 だが、僅かに震える指先がそれに触れようとした刹那、 「やめたまえ。」 静かな声がそれを制止した。 それは押し殺されているような、否、何かの限度を超えてしまったような…押し殺されて いるにも関わらず、よおら耳に脳に心に深く突き刺さるものであった。 そしてそれは女の身体をも貫いたのか、女の全身がびくりと大きく痙攣を起すとそれは見 る見るうちに元の色の無い怪物へと変化していく。 その反動で、エドワードは女の…否怪物の懐から取り落とされてしまい、人とは少し違う 音をたてて床に転げ落ちた。 「ガルウウウゥゥゥゥゥッッ!!!!!」 怪物の鬣(たてがみ)の様に逆立つ髪がムチのように撓り、一気に緊張していく空気を切り 裂いた。 刹那の時間を邪魔した存在に向けてその刃は真っ直ぐに向けられる。 だが、突然現れた鋭い気配はそれに怯むどころかより鋭い見えない刃でそれを返した。 「離れろ…。」 変わらぬ低い声と共に整然と並ぶ棚の影から醒める様な青を纏った男がゆっくりと現れる。 照明は相も変わらずこのかび臭い部屋を少しでもその陰気さを払い除ける様に照らしてい るのだが、この男の表情はまるでそこだけがそれを拒むかのように読み取れないもので あった。 ただ、胸元にある白い布に覆われた手が…きつく合わされた指先がその感情の激しさを物 語っている。 「グゥゥゥゥゥゥ…。」 しかし怪物はそれ以上微動だにせず、怒りを露わにした色違いの瞳で男を睨みつけている。 「人語は理解出来ないのかな? そこからどきたまえ…と言っているのだ。」 風もないこの部屋であるにも関わらず、男の黒髪が大きくゆらりと煽られた。 僅かにだがジジ…という音と赤い閃光がその指先を彩っている。 一触即発の中、床に横たわる少年はいまだ目覚めず、緊張の糸はこの短時間で既に限界を 迎えていた。 男…ロイ・マスタングにしてもこれは大きな賭けであった。 「まったく、君というやつは…私を過労死させるつもりかい?」 その大きな賭けを前にして、男は次から次へと少年を襲う不測の事態に内心大きく溜息を つく。 仕事…といっても続けざまに起こる大小の事件の報告を上司にするという誠に面倒な事が 終わり深い溜息と共に執務室に戻って見ると案の定、弟のアルフォンスだけが部屋の片隅 で木箱に入れられ取り残されていた。 「大佐、お疲れ様でした。」 どうやら、まだヒューズの餌食にはなっていないな…と苦笑い、ロイは分かってはいるも のの一応彼にこう訪ねて見る。 「鋼のは?」 「兄さんなら書庫ですよ。」 それはここではよく交わされる言葉の一つであった。 よく…といってもこの兄弟がここを訪れるのは滅多にない事ではあるのだが…。 その少ない中でももっとも交わされるものであるには違いなかった。 「待つのは…無駄だな。」 とりあえず、今の時点で今日の仕事はこれで片付いている。 そう、有能な部下の銃の的にはならない程度に…。 「すみません、大佐。」 大体、軍において上司が部下を迎えに行くなどというのは言語道断である。 それがいまだ子供の領域を脱していないとはいえ、軍属であるならば守らねばならぬ暗黙 の規則。 しかし、ここでは軍属ではない…彼より下の弟の方がまだそれをよく弁えていた。 「君が謝ることではないよ、アルフォンス。」 それに…とロイは笑う。 「鋼のに貸しを作って置くのは楽しいからね。」 「た…楽しい……ですか?」 悪くない…ではなく、楽しいと言ってのけたこの男にアルフォンスの声が引き攣った。 ロイは当然というように頷くと、こう切り返してくる。 「そうは思わないかね?」 「………。」 考える余地もなく、否定さえも出来なかったアルフォンスである。 兄いじりが楽しいのはいつも近くに居る弟が最もよく知っているからだ。 −−−兄さん、ごめん! 否定出来ないよ!! それでも弟は心の中で今は本の虜になっているだろう兄に今日だけで何度目かの詫びを入 れる。 「では、私はこれで失礼するよ。」 その反応をも楽しみながらロイは雨避け用のコートをばさりと羽織る。 「じゃあ、車回してきます。」 その様子にハボックが動いた。 実はあまり進んでやりたい役回りではないのだが、既に適任とホークアイ中尉を筆頭に認 識されているが為、部下としては仕方の無い事である。 だが、急ぐこともしない。 それが何故か解ってしまう自分にハボックは大きく肩を落とす。 自分達もいい加減、エルリック兄弟には甘いが、この上司はそれの更に上をいっていた。 それが彼の望む出世街道の障害になっている事に気づかぬ男ではないであろうに、恐らく そんな事は彼にとって些細にもみたない事として片付けられているのであろう。 そうして彼はどうやって時間を潰そうかと色々考えながら人気の少なくなった廊下をタバ コの煙のようにゆらゆらと去って行った。 「大佐、兄さんをよろしくお願いします。」 それについて去ろうとする男にアルフォンスは動かせない身体を木箱ごと揺らすように頭 を下げる。 リオールの怪物、タッカー、赤い石……そして新たに現れた、傷の男…。 そのふてぶてしいほどの態度と強靭な信念と反比例するかのように繊細な心を持つ兄を弟 は常に心配していた。 特にここ最近は立て続けに酷い事件が重なって彼らの身に降りかかってきたので尚更の事。 だから、今、兄の傍らに居る事の出来ない自分に苛立たしい程の不甲斐無さを感じている アルフォンスである。 それを知ってか知らずか、男はただ笑みだけを返し、その場を去って行ったのであった。 だが、この時、執務室でその始終を見聞きしていた部下たちはこう心の中で突っ込んでい たのであった。 「本当に『よろしく』されたらどうするんだっっ、アルフォンス君ッッ!!!!!」 そして、皆、大佐の残して行った笑みに確実に大人の『よろしく』を見た部下達はこれか ら生贄になるであろうエドワードに最大の哀れみを込めて大きな十字をきっていたのであった。 *next*
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