大きな黒い塊が無機質な音を響かせて船内を疾走していく。

目指すは下位部にある、とある一部屋。

そのスピードからして、程なく目的の扉の前にそれは立った。

プシュ…と断りもなく中へそれは転がり込んだ。

「フェイトっっ!!」

この男…身体も大きいがそれに比例するかのようにその声さえも大きい。

船内の客室という狭い部屋にある冷たい金属の壁がそれに共鳴して震えるかのようであった。

「やかましい、阿呆。」

しかし、それに応えたのは全く別の静かな声音。

そう、ほんの数歩で辿り着く再奥ある簡易ベッドには、この部屋の仮の主ではない人物が

腰をかけていた。

そして、その男の影には、見慣れた少年の身体が力なく横たわっている。

「アルベル、何があった?」

クリフはこの際何故アルベルがここに居るかどうかよりも、部屋に僅かに香る血の臭いに

深く眉間に皺を寄せた。

「……………。」

アルベルと呼ばれた青年は、暫くじっとクリフを見たまま無言であったが、ぐぃっと明ら

かに彼のものとは違う白い布に巻かれた腕を空へ突き出した。

「この阿呆、自分で切りやがった。」

破棄捨てるように投げつける言葉であったが、それ程、今回の騒動の首謀者に対して嫌悪

を示している訳ではない事は短い付き合いだがクリフにも解り過ぎるほどに理解っている。

クリフは静かに二人に近寄り、今はぐっすりと眠り込んでいるその彼を無表情に見下ろした。

「安定剤か…。」

「…。」

「…いつからだ?」

恐らくここまで手際がいいという事はこれが最初ではないはずだ。

何故、気づかなかったのだろう?

彼の事は何でも気づいていると思ったのに…一体どこから気づけなくなってしまったのだろう?

「阿呆が!何故気づかない!」

ふつりふつりと湧き出でる怒りを喉の奥で噛み砕くかのように潰れ擦れた声が問うてきた。

「……。」

言い訳はしたくなかった。

特にクォークと合流してからというものの、どうしてもそちらの作業を優先し、彼を…

フェイトに目が行き届かなかったのは事実だ。

守ってやる、アテにしろと言ったのは誰だった?

自らを堕とすような事を言うなと言ったのは一体…。

それが最終的に彼を追い詰めた事になるのだろうか。

行き場のない少年の不安は、自らを傷つける事でその存在意義を見出そうとしているのだ。

0と1の集合体でしかないと言われた自分達を…否定する為に。

「どいつもこいつも…阿呆ばかりだ…。」

なんとも言えぬ重苦しい空気が漂う中、ぽつりとアルベルはいつもの言葉を溢した。

そう、彼はいつもいつもそう言い続けている。

それを、少年が…フェイトが嫌がるのを知ってても、アルベルは気にもとめないでいた。

「お前の阿呆は自分以外は全てそうだろうが…。」

さすがのクリフも今の自分の立場を一時忘れて、呆れたように肩を竦める。

しかし、彼が言いたい事はよく理解るのだ。

こんな事をしても何にもならない。

己を傷つけ、そして、その痛みと命の水を認知する事で自分の生を確認する。

確かに愚かな行為だ。

それこそが、造られたものなのだから…。

いや、そうじゃない…、そうじゃなくて……、もっと…。

「貴様もだ、クリフ。」

名を呼ばれて、クリフは弾かれるように顔をそちらへ向けた。

その言葉の意味よりも、クリフにはその後の言葉に大きく目を開く。

そう、初めて名を呼ばれたような…。

「手に負えなくなったか?」

誰にと問う間でもない。

「そうじゃない。」

クリフは大きく首を振った。

しかし、言い切ったものの、それは是とも非とも言えない。

言葉通りに受け取るならば「非」、だが…。

膨らみすぎて持て余してどうしていいか分からなくなった…手に負えなくなったのは、

己の感情。

それは本来、異性に向けられるべきものだと自覚したのは…彼が秘められた能力に覚醒した、

まさにその時であった。

遠からず恋敵に的を射られたせいか、疲れが酷く重く肩にのしかかってくるような気がして、

その重さに負けたようにクリフはふと目を閉じる。

「!!」

が、その時、冷たいものが喉元にぴたりと当たった。

その薄ら寒い感触にうっすらと開いた視界の隙間から、複雑な色あいの髪と血のように紅

い瞳が嫌な笑みを浮かべて覗き込んでいる。

「隙を見せるなと言った筈だ。」

体力さでは劣るがその俊敏さはメンバー随一のアルベルは、一瞬の間にその差をつめ、彼

の懐に潜り込んでいたのだった。

クリフは一瞬息を飲むが、彼が本気でない…否、本気だったとしてもここでそれを実行す

る程、愚かではない事を知っていたので睨み返すだけでその場は硬直する。

「去け、今の貴様に用はない。」

首に当てた義手の刃はそのままに、アルベルは生身の手で、とん…とクリフをドアの方へ

突き飛ばした。

その言動は一見冷淡そのものに見えるが、これが彼なりの気の使い方の表現方法なのである。

これはよくアルベルという個人と忍耐強く付き合っていかないと気づかない事であった。

自分以外のものは認めない…いや、自分さえも認めていないこの男にどんな過去があった

のかは知らないが、吐き出される言葉よりも明瞭に語るその行動は信用に値するものである。

「……。」

いつもなら、この無礼な男にも厭味の一つや二つ返してやるのだが、今は…その資格がク

リフにはない。

それだけに、アルベルの気遣いは今の自分にとって有難いものだからだ。

もちろん、アルベルがクリフの為に気遣っている訳ではないことを重々彼は承知している。

全ては…。

クリフはアルベルの肩越しに今は静かに横たわる少年を見やった。

「頼む。」

それから、彼はそう短く言葉を吐くと、現れた時より幾分か静かに扉は閉まっていった。

それを言葉もなく見送っていたアルベルは、消えた背に向けて鼻の先で嘲笑う。

「フン…。」

重い足取りで去っていく大男を視線の端に捕らえながら、残されたアルベルは再びベッド

へと戻って行った。

そして、何も警戒を示さず、すやすやと眠っている少年に傍らに腰掛ける。

「ん…。」

それに合わせる様に、少年のうっすらと瞳を開き、甘い声を漏らした。

アルベルの肩が僅かに跳ねる。

起こしてしまっただろうか?

しかし、そうではなかったようだ。

背中越しに感じる熱の暑さに随分と間際に座ってしまった事にアルベルは気づく。

これではいずれ起してしまうと彼がもう少し離れようと腰を浮かしかけたその時、

「っっ!!!」

己の顎がかくんと跳ね上がる。

と、同時に酷い痛みが後頭部を襲ったのだが、なんとか声を殺すことは出来た。

そして、何事かと反射的に中腰のまま振り向こうとして、愚かにもまた先ほどの痛みに襲

われる。

「引っ張るなっ、阿呆!」

ちりりとしたその不快な痛みのせいでつい大声でそう叫んでしまってから、はたと気がつ

き腰を再びベッドに落とすと、それにより僅かに出来た緩みの許す限りで後ろを見やって

みる。

すると、視界の端にフェイトがぴたりとアルベルにくっついて彼の束ねた長い髪をむんず

と掴んでいるのが見えた。

「……こ……そばゆ……。」

どうやら、近づきすぎたせいで、後ろで踊る細く束ねた髪の毛先が猫じゃらしのように彼

の顔をくすぐっていた様であった。

「チッ…。」

意識が不明瞭な分、力の加減を知らない彼の手を、アルベルはゆっくりと慎重にはずして

いった。

普段なら、思いっきり相手の手を叩いて引き抜くところなのだが、さすがの彼もさっきの

あの痛みはもう二度と御免だったようだ。

しかし、触れる事でフェイトの瞼が緩やかに上がってくる。

薬のせいか、焦点の合わない曇りガラスのような瞳が半開きの瞼の奥でゆっくりと左右に

揺れている。

「…アル………?」

声までが頼りなげでふわりふわりと宙を漂っていた。

「阿呆が、寝ろ…。」

そんな様子の彼が理由は分からないが何故か酷く不快で、アルベルは無造作に手のひらで

彼の瞳を覆い隠してしまう。

フェイトの方もその感触に少し身じろいただけで、そのままはっきりとは目覚める事もな

く再び曇りガラスのような瞳を閉じると静かに寝息を立て始めた。

それを確認すると、アルベルは…彼にしては珍しく深く溜息をつく。

「……。」

そして、いつの間にかじわりとかいていた冷や汗を、乱暴に拭ったのであった。

不快? 否、不安?

この胸の最奥の方をぎりりと締め付けられる感じは、彼が生きてきた人生の中であまり味

わった事のないものである。

だが、知らないわけではない。

それは僅かな数の経験ではあるが、酷く深く彼の記憶と心に傷を残していたのだった。

今のこの自分の全身を支配する例えようのないモノはあの時を思い出した時に似ているよ

うな気がするとアルベルは無意識に爪を食んだ。

「阿呆が…。」

アルベルは何度吐き捨てたか分からない言葉を、誰に投げつけるでもなく呟いた。

短く切りそろえられたフェイトの蒼い髪が健やかな呼吸とともに、白い波の上を漂っている。

アルベルは何ともなしにそれをさらりと指で何度か梳いてみた。

常に強い者を追い続け追い越してきたアルベルにとっては、何故この少年に惹かれてこん

な面倒な事に付き合っているのか不思議で仕方が無い。

こんなに弱くて脆い人間に…。

しかし、あの時…自分は確実に負けたのだ。

そう、少年の華奢な身体には似つかわしくない大剣が自分の急所を確実に捉えていた。

髪と同じ蒼い大きな瞳がそれと共にまっすぐにアルベルを射抜く。

今までの決して長いとはいえない人生の中でたくさんの命のやり取りをしてきた彼であっ

たが、勝敗に関わらずこれ程までに執着させる人間には出会った事がなかった。

だから…、迷わず彼を追う事にしたのだ。

自国の枷を外してでも、それは価値のある事だから。

そのおかげで…というか、身近に意外な協力者が居たのを発見出来た事には心底驚いたのだが…。

「まさか、あの喰えぬ爺以外にそんな物好きがいたとはな…。」

今、思い出しても喉の奥にクツクツと笑いがこみ上げてくる。

しかし、それは僅かの間の回想に留まり、アルベルは再び少年に意識を向けた。

少し薬品臭いシーツに包まれて眠るこの少年が、この世界を救う最終兵器だと人は言う。

ソフィアは「繋ぐ」力を…。

マリアは「留める」力を……。

そして、フェイトは…。

「破壊。」

全ての何をも凌ぐ絶対的な力。

以前、その一旦をアルベルはまだ敵だった頃に垣間見た事があった。

フェイトの小さな背中に大きな白い翼宿るとそれはまるで世界を包み込むように広がり、

未知なる空飛ぶ船を一瞬にして消し去ったのだった。

そう、それは一瞬に……まるで存在していなかったかのように、跡形もなく。

アルベルは強い力に憧れていた。

自身の慢心から、自らの腕を失い、父をも失ったその日から…。

だから、こっそりと鍛錬だけは欠かさなかったのだ。

しかし…。

あれは、「違う」。

その時消された未知の船の力も、フェイトの未知の力も…彼が求めるものではなかった。

では、「何故」?

「……フン。」

そんなもの、彼にとっては分かりきった事であった。

はっきりと負けを確信したあの時に見下ろされたあの瞳の中にある力。

自分があの時失くしたもう一つの力。

それを取り戻す術があの瞳の中にあるような気がした。

だが、世界の真実はあまりにも惨く、現在、彼はそれに押し潰されようとしている。

彼らは生き残るためにはこの世界の創世者(オーナー)…、すなわち分かりやすく例える

と「神」殺しをしなければならないのである。

…だが、それは本当に正しい選択だと言えるのだろうか?

もし、オーナーの言う事が正しいのであれば我々がただ作られただけの…ゲームの駒、

マリアが言うところの「デジタル」という存在であるならばそれは到底許される事ではな

いのかもしれない。

だが、そんなものは…。

少なくとも、アルベルにとってはこれでそんなものは、

「知らんな。」

そう、知った事ではない。

失ったこの腕が…、父が…、痛みが、決して消える事のない悔恨が!!

作られたものだとは、絶対に、誰にも、言わせない!

あの時感じた、そして今も感じるこの全てを己が信じる限りは贋物ではありえないのだ。

それは痛みや苦しみだけではない。

「……。」

指先をくすぐる息、温もり。

オーナーにとって彼らの感じる全てが贋物であるというのが真実ならば、そのオーナーだ

とて実際のところ自分達が何者であるかなど分かりはしないのだ。

彼らが造られた存在だという事を知らずに生きてきたと同じく、オーナーが存在する次元

だとてそれを保証するものは何もありはしない。

ただ、彼ら自身がそうだと信じているだけ…真実に辿り着けていないだけなのかもしれない。

だから、何も悩む事はない。

「疑うな。」

そう、無意味に傷つけた痛みを…、そして何よりもその手で受けた血の数々を…。

奪った命の数を、奪われた命の数々を…それを忘れなければ今の愚かな悩みも拭い去ると

いうものだ。

それが理解らぬ愚かな男だとすれば、とうに自分がその命を狩っているところだという自

信がアルベルにはある。

それでも…。

その背に宿った翼の重みに耐えられぬようであれば、その重みを消し去ってやろう。

オーナーだかなんだかは知らないが、命のやりとりを知らぬ者にアルベルは用はない。

そんなものが世界を…この男を自分から取り上げるというのならば、「神殺し」の罪もま

た悪くないというものだ。

「貴様にはその価値があるからな…。」

喉の奥がクツリと鳴った。

そして、そっと上げた指先で静かに呼吸を繰り返すフェイトの青白い頬に触れてみる。

起さぬようにと慎重に彷徨う武人にしては細い指。

その表情はいつもと変わらない無愛想なものだとしても、他人を起こすのに眼前に剣を突

き立てるというあの荒々しさを今この男からは全く感じ取れなかった。

それから、アルベルは一頻りその時間を堪能すると、音もなく立ち上がり颯爽と部屋を後

にしていく。

そう…、それは二度と叶わぬと思っていた。

国最強と謳われた父でさえ、半ばそれに飲み込まれたという。

その父に敵わぬ己が、今、どうしてもそれを求めていた。

魔剣クリムゾン・ヘイト。

目に見えぬ虚構の鎖を断ち切るのはそれしかないとアルベルは確信している。

やっと見つけた答えを…今度こそ己の過失や傲慢で失わない為にも立ち向かわなければな

らない。

それが例え、己の心を砕くことになったとしても…だ。

そうするだけの価値がある人間に巡り逢えたその幸せだけは失わずに済むのだから…。

そうして、彼らしい…その足は一度も後には振り返らず、既に見えた未来の方へと向って

いったのであった。







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2005.02.26+++ amane

「幻月館」で発表したもの。まだ、続いてます。